7キスト
新しい意識
古い宗教やスピリチュアルな伝統のほとんどに共通する洞察がある。われわれの「ふつうの」精神状態には基本的な欠陥があるということだ。
しかし人間存在の本質に関するこの洞察ーこれを悪いニュースと呼ぼうかーから第二の洞察が生まれる。人間の意識の根源的変化の可能性という良いニュースである。
ヒンズーの(仏教にも共通する)教えでは、この変化を「悟り」と呼ぶ。イエスの教えでは「救済」、仏教では「苦滅諦」と言う。「解放」や「目覚め」という言葉が使われることもある。
人類にとって最大の成果は芸術作品でも科学でも技術でもなく、自らの機能不全、狂気の認識だ。
遠い昔にすでにこの認識に到達していた人々がいた。たぶんこの機能不全を最初に絶対的な明晰さで見抜いたのは、二千六百年前のインドにいた、ゴータマ・シッダルタである。ほぼ同時に中国にも目覚めた人類の教師が現れた。その名を老子という。老子は最も深い霊的な書物の一つである『道徳経』という形で、その教えを遺した。
もちろん自らの狂気を認識することが正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。すでに地球上には意識の新たな次元が現れ、最初の花々が少しずつ開き出している。
これまでごく少数ではあるが、同時代人に語りかけた人たちがいた。彼らは罪について、苦しみについて、妄想について語った。「自分の生き方を見てごらん。自分が何をしているか、どんな苦しみを生み出しているかを見てごらん」と。
それから彼らは「『ふつうの』人間存在という集団的な悪夢から目覚めることができるのだよ」と指摘した。彼らは道を示した。この人たちは人類の目覚めに必要不可欠だったが、世界の側の準備はまだできていなかった。
だからたいていは同時代人に、そして後世の人々にも誤解された。
本文省略
人類の精神の機能不全を克服する道、集団的狂気から脱出する方法を示した教えは歪められ、それ自身が狂気の一部となった。こうして、宗教は人々をまとめるよりもむしろ分断する力となってきた。
生きとし生けるものはひとつであるという認識を通じて暴力や憎悪に終止符を打たせるのではなく、もっと激しい暴力や憎悪を引き起こし、人間同士を、異なる宗教を、さらには同じ宗教の内部までを分裂させたのである。
宗教はイデオロギーになり、人々が自分を同一化させ、間違った自我意識を強化しようと試みる信念体系になった。
人々はこの信念をよりどころに自分が「正しく」て相手が「間違っている」と断じ、敵を、「他者」「異端」「間違った思想の持ち主」と呼んだ。それによって自分のアイデンティティを確立しようとし、対立者の殺害すらもたびたび正当化した。
人間は自分の姿を象って「神」をつくった。永遠、無限、名づけようのない真実は、「私の神」「私たちの神」として信じ崇拝すべき偶像に堕落した。
だが宗教の名ではびこってきたこのような狂気の行動にもかかわらず、それでもなお核心部分では各宗教が指し示した真実が依然として輝いている。
どれほどかそけき光であろうとも、何層もの歪曲や誤解を貫いていまも輝き続けている。ただし人は自らのなかにその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。
引用元:ニュー・アース 『第一章 私たちはいますぐ進化しなければならないー新しい意識ー』より
※書籍のご一読を推奨します。
テキスト音声 4:23
MEMO動画 2:22
Navigator’s Comment
花の美しさが自分の内側の美を映し出していたように、他者や外側に見る世界はすべて自分の内側を映し出している。
ことばを変えると、人は世界を自分の見たいように見ている、とも言えますね。
”「自分の生き方を見てごらん。自分が何をしているか、どんな苦しみを生み出しているかを見てごらん」”
内側に沸き起こる思考や感情に抵抗せずに俯瞰してみる。
その先に大きな気づき、光を認識していくのではないでしょうか。
ではでは、ALOHA!