本当の自分に還り、本物の豊かさを味わう
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グラウディングの重要性(2)/ヒーリング②

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すべての成長や変化は
「自分は本当は誰であるかを、さらに思い出していくプロセス」だといえます。

「受け入れる」とは、起きてくるすべての出来事を自分が
本当の自分になっていく道の一部ととらえ、ポジティブに利用していくということ 。
(バシャール2006)より

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アロ~ハ♪@yukarinkoです^^

成長や変化とは意識が拡大していくことである
と古今東西の偉人達は話しています

ということはつまり
わたしたちの魂はもともとは完ぺきであるという
こをと違う言葉で言い表しているわけですよね

だから成長するっていうのは
本当の自分を思い出していくプロセスというわけです。

わたしたちは学ぶために
此の世に生まれてくるとかってよくいいますけれども

なんとなく昔っからその言い方って
わたしにとっては堅苦しいと言いますか

いちいち学びとかいわれると正直肩がこる(笑)

わたしはいろいろな文献やメンター達からの教え
自分自身の体験を踏まえて、あと直感的なスタンスとして

学ぶっていう表現を

魂であるわたしが物質的な経験を通して
本当の自分を知る体験をする

あるいはもっと楽しい表現をすると

わたしはこういう魂なんだ~ということを
体験するために、味わうために、楽しむために、創造するために
この物質的な次元に生まれてきた!と考える方が自然なわけですが、、、、

あなたはいかがですか?

子どもの頃から、誰しもが
自分はなぜ生まれてきたんだろうって
ことを考えはしなかったでしょうか?

それがいつからか
こういうもんだ、ああいうもんだ、なんて

いわゆる世間の常識というものに縛られて
自分が何ものであるかなんて考えなくなる

でもそういう思考停止状態にならないと
おまえはおかしいとかって変人扱いされるし

まわりに溶け込めなくなるから
めんどうだし、疎外感味わいたくないし、安心したいし

ってことで、思考停止状態を選ぶんですよね、きっと。

わたし不器用だから
思考停止状態になりきれなかった人間なんですよね

此の世の物差しで測ると超落第生なわけです

ごっこができない
子供の頃、ままごとは好きだったんだけど

大人になっていく過程で
リアルごっごを要求されだすでしょ

みんなが笑ってたら、可笑しくもないのにわらわなきゃならない
みんなが悲しそうにしてたら、悲しくもないのに悲しそうなフリをしなければならない

みんなが深刻そうだったら
自分にとってはたいした問題ではないのに、深刻そうなフリをしなければならない

ある一定の、みんなが集合的に定めた年齢に達すると
恋人がいないと、結婚相手がいないと、っていうかそれだけで

寂しい人間とかって定義されて、そういうレッテル貼られて

自分はまったく寂しくもなかったのに、なんの不自由もしていなかったのに
なんとなく肩身がせまくなってきて、そのうちあたかも孤独になったように錯覚してきたり

自分は不完全なんだ、不幸なんだ
成功していないんだ、みじめなんだ、、っていうループ

お中元だ、お歳暮だ、バレンタインだ、クリスマスだ、お墓参りだなんだかんだ

自分がやりたいから、そうしたいからって素直な気持よりも
社会がそうだから、世間がそうだからって自動的にやらなくちゃならない行事の数々

わたしね
田舎に帰ってきてから、やたらお墓参りに振り回されるというか

東京で一人暮らししてたときって
お盆に帰ってきたときにお墓参りにいくって感じだったから年に一度くらいで

でも田舎戻ってから彼岸だなんだってしょっちゅうなわけですね
こっちの都合おかまいなしに強制的に墓参り墓参りって、、、なるわけですね

田舎の風習でおおいと思うんですけど
仏壇にね、毎日、供物をあげるわけです

うちは母が毎朝
ごはんだのおかずだの小さい供物の器にいれてるんですけど

こんなこというとあたしほんとうに
罰当たりって思われるかもしれないんだけど

傍目でそんなの食べるわけないじゃんって思うわけです
だって、そんなカラスのごはんになるようなもの

あたしが死んではたして本当に仏壇とかに
毎日霊として来ていたとしても、そんなの食べたくないんだけどって思うわけです。

お気持ちだけうけとっておくよ、ありがとね
でもあなたはもっと自分のことに集中しなさいよって思うわけです。

朝忙しい時とか、イライラしてますしね、うちの母。
だったらそんなにムキになってやらなければいいじゃんって思うわけですが。

でね、あるとき母に言ったんです。
あたしが先祖だったら、それ食べたくないって。そういうの食べるわけないじゃんって。

そしたら、母、確かに食べるわけはないだろうねと、、、。

じゃ、なんでそんなことしてるの?って、あたし。
そういうもんだから、、、、って、母。

お墓参りについても言ったことあるんですよね。
だって忙しいのにムキになって墓参りに行くのってすごく滑稽に
わたしの目には映ったし、それになんか世間体を気にしてやってる
みたいに感じることもあるし、、、。田舎ってそういうとこすごくあるから。

だから、なんでそんなに墓参りを優先させるの?って。
わたし的には、お墓参りが絶対的なご先祖様への感謝にはつながらないし。

だって、感謝は家の仏壇でも、ベッドの中でも、歩いててもいつでもできるし
それにご先祖さま方って守ってもらったり、願いをかなえてもらったりなにかを
頼む存在とかではなくて、もっと身近な対等な存在であるような気がするんですよね

極端な話、お墓なんていらないって私思っていて
お墓とかって昔の寺社が生きのこる策略?的なもの感じるし

そもそもそんなことで土地つかうってどうよ?みたいな
死んだら自然に還ればいいじゃんっていう価値観のあたしにとっては
お墓って正直あんまり価値がない

で、お墓参りになんでそんなにムキになるんだって聞いたら
あたりまえにやらなきゃいけないから、そんなにいちいち考えるかって
言われてました(笑)

お墓参りの意味とか、仏壇への供え物の意味とか
自分より若い人たちにも聞いたりしたんですけど

みんなだいたい、考えたことないって回答なんですね。
そういうものだって思ってみんなやってるって言う。

だからこの件についてわたしが納得いく答えは
いまだにありません。

もちろんご先祖を敬う気持ちっていうのは
分かりますよ。そんなのあたり前だのなんとかです。

あと毎日きちんとやっているって
母の行動にも敬意を払っています。

でもね、わたしが違和感を感じるのは
その行為がどういう意味をもつ行為なのかってことを
わからないでやってるってことに意味を見いだせないわけです。

社会的な意味なんてあんまり重要じゃなくって
自分にとってどういう意味があるのかってことが重要だって思うんです。

ながなが書いてきましたが
結局なにがいいたいんだっていいますと

つまり世の中、そういうことが多すぎるんじゃないかと。

やってることの意味とかよりも、慣例だからってことで
思考停止状態で自分のエネルギーを費やす行為がどんなに多いのかって。

みんながやっているからやらなければいけない、誰かのつくった
物差しにおいつけおいこせで一所懸命、一所懸命・・・・。

競争についてこれない人は
怠けているとか努力が足りないとかなんとか、、、。

あたりまえってだけで、安心して、自分がやっている意味すら考えない。

それって自分がなんのために存在しているかってことを考えないことと
イコールな気がするんですが、厳しすぎますでしょうか?

感性が敏感な10代の頃
わたしは本当にこういうことをたくさん考えて感じていました。

だから生きているのがバカバカしくなることも正直ありました。
自分が感じる魂の素朴な疑問に答えてくれる大人はだれもいませんでした。

大人たちがくれたのはそれをやることの意味、生きていることの意味よりも
どうやったら物質的に安定した人生を送っていけるかという
サバイバルゲームについての戦い方です。

それで
社会のものさしにそぐわない部分があったら
容赦なくお前は駄目人間だって裁いたりする。
ごもっともだという理由で、何かを強制したり束縛したりする。

わたし、愛想笑いできない子だったから
いつも冷たい顔か嫌な顔されてました。

そのうち歪んだハニカミを強制されて
どんどん生きることがバカバカしくなっていきました。

そのうち周りの子たちみたいに
ニコニコできない自分がなんでか情けなくなってきたりして

消えてしまいたくなりました。

自分が将来どうなっていきたいかって夢を語る相手や
情熱とか面白いって思えるものがなかったからいつも田舎を出ていきたくて

都会に行けばなにかいいことがあるんだって錯覚して、、、。

だから
わたしはときどき生きていることがとてもつまらなくて
はやくこの人生おわらないかなあと思うこともありました。

はやく本来いるべきところへ帰りたい。

大人になってからも相変わらず
愛想笑いが苦手だったけど

でもそんなあたしを素直だとか朴訥だとか
羨ましいとか安心できるとか言って
信頼してくれる人に恵まれたことには感謝してます

なんだかんだと
人には本当に恵まれていて。

だからなんとか生きてこれて、今のあたしがいて。

さて
いつのころからか、わたしはそういう大人たちも
幼かった私となんらかわりがなかったことにきづきました。

愛すべき、大人たち。

そして、わたしは、自分の傷ついたハートの奥の子供が
癒やされていく過程で、いずれにしてもすべてが愛すべき
人たちであり環境であったことにようやく気付くことができました。

つまり、それは、わたしが
否定していた自分の多くを許しだしたことの証明。

いいとか悪いとかじゃない
大人たちはそれが正しいと思ってやってきていただけ
彼らもおなじ教育を受けてきたんだと。

まわるまわるよ、時代はまわる。

わたしは、わたしたちの世代でこの無知の鎖を
断ち切りたいと本気で思っています。

だから、わたしは、いま
たくさんの大人たちが

体が大きくて、歳をとったというだけで
大人とよばれるわたしたちの世代が

本当の自分に還り、たくさんたくさん
自分を愛してあげて、自分を許してあげて

いっぱいいっぱい、子供たちに
本当のことを教えていけるほどに

本当の自分に還っていく時なんだろうと
もう、そうなってもいい時代なんだとおもっています。

だから書いてます。
今、できることから形にしています。

あたしたちは
もう、無知の鎖から解放されて

もっと自由になっていい。
いっぱい自分を愛して、自分を許して

自分のハートが満たされて一杯になって
それがあたしたちの身近な人たちに伝播して

そしてそれがまた伝播していって
無知の鎖から愛の鎖になっていく。

さて
今日のテーマはグラウディングなんだけれども

この愛の気持をそのまま地球に向けてみてほしいんだよね

だってこの母なる地球が、あたしたちが
愛を感じるという大いなる経験を可能にしてくれているのだから

そんなマザーアースに感謝して
愛のエネルギーを送る、母なる地球の中心とつながっているとイメージする。

グラウディングとはつまり、愛を持って繋がること。

それは実は、とってもとっても、シンプルなこと。

グラウディングをして
しっかり地に足をつこう。

そして
しっかりと自分につながるんだ。

そして
しっかりと自分の道を歩いていくんだ。

他の誰でもない
自分自身をとり戻して。

ではでは、本日も最後までお読みいただきまして
ありがとうございました

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